うきは五庄屋絵巻

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かつての「うきは」は、山が栄えていました。水が豊富で、お米も木材も手に入るところでした。

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一方で平野部は江戸時代に入るまで、住み良い場所ではありませんでした。
それは、川の流れが大きく影響していました。

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巨瀬川はなぜかまっすぐに筑後川に注がず、耳納連山に沿うように流れています。
二つの川に挟まれた巨大な大地。一見水に恵まれているようでそうではありませんでした。

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暴れ川でもある筑後川は頻繁に洪水を起こし、村々を襲いました。
田畑に水が引けない上に、洪水で家も田畑も流される。二重の苦難が続き、寛文3年(1663 年)には江南村で28名もの餓死者が出て、28戸が村を去ったと言います。

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それでいて、筑後川も巨瀬川も水位が低く、水を平野に引き込むことができませんでした。

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そんな平野の暮らしを豊かにしたいと5人の庄屋が立ち上がります。
5人の庄屋は、壮大な「灌漑事業」を計画しました。

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平野に水引くため、水位が高いはるか上流から水を引く他ありません。
まず、夜に提灯の灯りを使って測量をし、設計図を引きました。

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必要な資金は、資材を投げ売り、藩には負担はかけないという条件で工事の許可を取り付けます。

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造る水路の川幅は約360センチ、深さ180~270センチ。13.3キロの計画です。
工事はいくつものグループに分けて、岩が多く難航しそうな場所には多めに人を配置するなど、事前に各箇所の作業人員を決め、雨が少なく農閑散期となる冬に、一斉に着工。毎日地元の農民500人が作業に当たりました。

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その結果、なんと工事は約60日で完成。皆が歓喜しました。

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それを見た、さらに下流の人々も、水路が欲しいと願い出ました。
この願い出を受けて、5人の庄屋が再び立ち上がります。久留米藩はこの事業認め、水路のさらなる延長を許可します。
延長する水路は川幅を2倍の約720センチにし、沢山水が流せるようにしました。

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ところが、ここで問題が起きます。拡張工事の結果、水不足が発生。水門からより沢山の水を取り込む必要が出てきました。
そこで筑後川の取水口に、石を積み上げて堰を築き、より沢山の水を取り込めるようにしました。この堰を「大石堰」と呼びます。

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これで、めでたしめでたし~
と思いきや、今度は上流の人たちが、自分たちも水路が欲しいと思うようになりました。

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そこで立ち上がったのが吉井町の大庄屋「田代弥三左衛門重栄」です。資材を投げ売り、水路建設を行います。

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ところが、上流は硬い岩だらけ。そこで、中国地方の鉱山から職人を呼び、岩に穴を開け、水を流す隧道(トンネル)をつくりました。隧道(トンネル)は、わずか9ヶ月で貫通。これを「袋野隧道」と呼び、現在も約300年の時を越え使われ続けています。

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こうして、うきはの平野には緑豊かな田園風景が広がるようになり、収穫量は100年の間に2倍以上になりました。

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これらの田んぼでは、春から秋にかけて稲を作り、秋に収穫した後に、春までは麦をつくる二毛作が始まりました。五庄屋が築いた水路には水車が設けられ、小麦を轢いて小麦粉をつくるようになります。

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その小麦から、やがて保存食として需要が高かった「そうめん」をつくるようになり、うきはは「島原」「神崎」と並ぶ九州三大麺どころにまで成長。江戸以降大きく栄え、吉井の町には白壁の立派な建物が立ち並ぶようになりました。
こうした先人たちの努力により、うきはは、山も平野も実り豊かな土地となったのです。